18年1月/暗渠工事も無事完了
明けましておめでとうございます。
明けましておめでとうございます。
ご家族の皆さまお揃いで佳い新年をお迎え下さったことと存じます。
新年を迎えたこの機に振り返ってみますと、我が家は、江州・滋賀がルーツですが、40年余り前に、10年近く夫婦共々勤めていた滋賀県職員を退職し、日本海沿いを900Km北上して、秋田・大潟村に米を作りに移住しました。
この地は、八郎潟の水をくみ上げた湖底で「新生の大地」と呼ばれていましたが、このネーミングのイメージとは異なる、葦など水生雑草が覆うぬかるんだ広大な荒野でした。
かっての八郎潟・八郎湖は、私の郷里の琵琶湖に次ぐ日本第2の大きさの、平均水深1メートル余りのフライパンのような浅い湖でした。
ここが干し上げられた当時は、日本の戦後食糧難も過去物語となり、商工業が高度経済成長を果して、日本は「先進国」の仲間入りを遂げた中で、農業だけが旧態依然の姿であり、政府はこの地に「近代的なモデル農村」を創るプロジェクトを立ち上げました。
これに参画する「変わり者」580所帯が、荒野を美田に変え、近代的稲作経営に取り組もうと、全国各地から集まり、我が家も昭和50年春に、家族4人で移住したのです。
その年に小学校に入学した長女は、いま2児の母としてそろそろ50歳。また、当地で生まれた次男が、東京での会社勤めから10年前に結婚を機に、我が農舎の跡継ぎとなり、小学4年生、2年生、幼稚園の3児のパパ、家族7人の賑やかな家庭となりました。
この間色々の出来事がありましたが、振り返ると愉しく充実した日々を送らせていただきました。これは多くの皆さんに助けられたお陰だと感謝しております。
また、30年近く前から有機や無農薬の手間隙かかるお米作りに転換しましたが、このコストの高い米作りは、ご利用下さる皆さんに支えて頂き続けられております。
年の始めに当たり心よりお礼申し上げると共に、皆さまのこの一年のご健康をお祈り致します。
昨秋の悪天候・吹雪の中の暗渠工事も完了し無事年が越せました。
表のページで紹介したように、我が家の田圃は、八郎湖の湖底そのものです。田んぼに入れた水や、降った雨は、地下に浸透することがありません。
この特殊事情のため、雨が多い年は、田圃がねかるんでトラクター、コンバイン、田植え機、除草機などが沈んで動けなくなることが度々です。
田圃を作り始めた40年前頃は、場所によっては人間も腰まで埋まることもありました。
湿地でも動ける高性能な田植え機はまだ開発されていなかった当初の頃は、100人、200人という大勢のパート女性による手植えで、お祭りのように賑やかでした。
その作業中には、膝上や、腰まではまって、動けなくなる人が時々でます。周りの人が2人3人と手を差し伸べ、引き出すのですが、泥んこになるだけで怪我などの心配は全くありませんから、叫びや笑いの渦となり「田植え祭り」に 花が咲きました。
この中には、現在も草取りに来てくれる方も一部おります。その頃の恥じらいを持つ早乙女さんたちは「あれから40年」。今どうなったか?・・・・・ご想像にお任せです。
一方、田圃の状態は「あれから40年」。もう人が腰まで埋まる場所はありません。
田圃の表土が、硬くなり「地耐力」が出てきました。
でも硬くなったのは、地表から30から50cm程度です。その部分を機械をスリップさせる等で破壊しないように気をつけたり、普段から排水を促進させるなどの管理で、大事に扱います。
昨年友人が、田圃の管理を怠り、乱暴に運転した結果、田植え機が沈車して動けなくなりました。
このような場合、一般的には当地の土壌特性を知った付近の者が助けに行きますが、丁度田植えの最盛期だったため迷惑が掛けられないと思い、土建屋さんに引き上げを頼んだようです。
土建屋さんのオペレーターは、5トンクラスの小型重機で乱暴に引き上げようとしたら、重機そのものが動けなくなりました。そこで10トン、20トンと次々に、大型の重機を投入、沈没させ、結局引き上げに3日かかった上、底が抜けた田圃や消失した道路の補修に、大型ダンプ20台余りの山土を投入しました。この地の怖さを知らず、力での挑戦は、直ぐにしっぺ返しです。
このため、水が地下に浸透しない当地の田圃は、暗渠施工が必要です。幅30cm、深さ1㍍前後の溝を掘り、一番下に集水、排水のための穴を開けたポリパイプを埋め、その上をモミガラで埋め戻す。
田圃の落水期には、パイプの終末に取り付けた弁を開け、排水路に水を抜きます。
昨年も、春先と秋の稲刈り後に暗渠を敷設しました。
昨秋の稲刈り後の暗渠施工は、雨が多く、伸び伸びとなり、その内に雪となり、最後は吹雪の中の作業でしたが、無事予定作業は完了し、安堵して年が越せました。