14年2月/大潟村誕生50年
予想外に雪が少ない1月でした。 【 PDF版 】
「秋田は大雪」という全国ニュースがクリスマス頃より何度も出ています。
また、私たちの地域の天気予報でも「暴風雪注意報」や「大雪警報」などが正月からも何度も出ました。
ところが実際には、秋田市以北は青森市まで積雪はほとんどなく、我が家でもポンコツですが、大型の除雪機を準備したにもかかわらず、出番はほとんどありませんでした。
しかし、秋田でも南部の横手、湯沢地方では40年ぶりの大豪雪で、雪の本格的な時期はこれからだというのに、自治体の除雪予算は1月中旬で底をついたと悲鳴を上げていると報道されています。
先号でふれたように、今年の雪は、局地豪雨型あらわです。当地も今後を心配しています。
ところで、数日前に友人と会うために久しぶりに南国・高知県を訪ねました。
当地は今年雪が少ないとは言っても、主要道路の路面に雪がないというだけで、結構寒く、白銀の世界です。秋田から大阪空港で乗り継いで高知空港に着くと、太陽は燦々、一面緑の世界。秋田の5月の景色が拡がっていました。羨ましい限りでした。
余り時間がありませんでしたが、四万十川に立ち寄り、幾つかある有名な「沈下橋」毎に遊覧和船が数艘づつあったので、その一つに乗ってみました。
遊覧時間30分程度の軽便ですが、岸からとは大きく違った和船からの眺めは風情があって、真冬の澄んだ四万十川の水の豊かさを満喫させてくれました。
船頭さんのお話だと、四万十川の土手に菜の花や桜、ツツジが咲く3月下旬から4月中旬はさらに絶景だと言うことでした。
ところで、屋外の作業ができない冬の間も結構仕事が多くのんびりしておれません。「農閑期」などと思っているとアッという間に時間が足らなくなります。 種蒔き作業用の色々の機械や田植え後に使用する除草機などの修理、改良などこれから種蒔き準備までの1ヶ月半、忙しい日々が続きます。
今年は私たちの大潟村が誕生して50年目です。
私たちの村・大潟村は、今から50年前の1964年(昭和39)八郎湖が干し上げられて間のない10月1日に秋田県で第69番目の自治体として生れました。
でも、誕生時は、工事に携わる6世帯わずか14人の人口でした。
その後田圃の造成や住宅、学校など公共施設の工事進行に合わせて、昭和42年から49年に全国から580戸が移住し、人口約三千人の自治体となりました。
元々の八郎湖は琵琶湖の約3分の1の面積を持つ、日本で2番目の大きさの平均水深1㍍余りの浅いフライパン状の湖でした。
戦後の食糧難の中で世界銀行の調査団が来日し、干拓の国オランダのヤンセン氏の指導と世界銀行からの借款が決定して、昭和33年から干拓工事が始まりました。
周囲50Km余りの堤防が完成し、干し上げて農地造成工事にかかる頃には、戦後の食糧難は解消していました。
そこで、当時の政府は、明治時代の北海道開拓から続けてきた「食糧増産」と「就業の場の提供」という開拓干拓事業の2つの政策目標とは根本的に異なった、大規模で近代的な所得性の高い稲作経営と、近代的な農村社会のモデルを創ることを目的とて、全国に参画農家を募りました。
このため、八郎湖の水を抜いて出現した1万7千ヘクタール余りの新生の大地は、従来ならば近接の自治体(市町村)に一括編入または、分割編入するのが普通ですが「近代的なコミュニィティー」造りのため、わざわざ地方自治法の特例法を作り「大潟村」という独立した自治体を創設したものです。
また、一般の農家の水田経営面積は1ヘクタール程度であった中で、1戸当たりの水田経営面積を15ヘクタールという当時としてはとてつもなく大き規模にしました。これに対応する国産の農業機械がない時代でしたので、フォードやファーガソンなど外国製のトラクターや収穫機械を導入することになりました。
前号でも紹介した、我がHPの資料室の「TPPや減反見直しなど平成25年末の農業農政問題」に載せているように、私は、今から39年前の昭和49年に、脱サラして、滋賀県から日本列島を900Km北上してこの地に家族4人で移住しました。
手に入れた水田15ヘクタールは、水田とは言っても、八郎湖の湖底ですので、ぬかるんだ膝まで沈む泥沼。重いトラクターやコンバインなど農機は時々沈車する。引き上げに使うトラクターやブルもまた沈車するということがしばしばでした。
また、当時は日本で田植機が開発されて日が浅い時代でしたので、このような悪条件の田圃で使える田植機はなく、始めの3年間はパートの女性の応援で手で田植えを行っていました。
4月下旬から始まる田植えの準備作業から2ヶ月余りは、早朝から月夜の日は夜遅くまで、泥んこになっての田圃作業で、帰宅して風呂に入れば、そのまま爆睡という日が続きました。
しかし、肉体的にはハードでしたが、実に愉しい日々でした。
(当時としては大規模な)合理・効率的な稲作経営が安定して10年余り経過後は、経営方針を徐々に転換して、専業的な稲作農家でこそ可能な、不効率な有機農業に切り替え、農薬や化学肥料に頼らない美味しさと安心安全を追求したお米を全国の消費者の皆さんにお届けしています。
日本の農業はこの10年で大きく変わり、今後更に大きく変わろうとしています。
10年余り前まで、「とてつもなく」大規模であった15ヘクタールの経営規模は、今では全国各地に50ヘクタール、80ヘクタール規模の水田経営が散在するようになってきました。我が村の農家の規模は「弱小規模」に分類される時代になりました。
今後我が家でも、生産コスト低減や生産性の向上を無視することはできませんので機会があれば少しは規模拡大も考慮する必要があると思いますが、20年前に転換した美味しさや安全性など高品質の追求を重視したお米作りの基本は不変としたいと思っています。どうぞ今後もご支援をお願い致します。