13年11月/遅きに失した減反見直し
雪に覆われるまでの暗渠作業で大忙しです。 【 PDF版 】
当地の10月は、上旬は好天でしたがその後は雨続きでした。 でも、我が家の収穫作業は、天候が悪化する前日に終えることが出来ました。 その上、稲刈り期間中は、十数年ぶりに、幸運にも一日も雨にあわず作業は順調に進みました。
しかし、近所の農家では、稲が倒れたことで作業が進まず、その後悪天候に入って、雨で、稲が腐って収穫できない田圃もあるようです。 このように収穫不能の田圃が出るほど悪天候が続くことは珍しいことです。
ところで、稲刈り作業は例年より早く順調に終わったとはいっても、その後も田圃作業が忙しく紅葉見物も今年は無理のようです。
長期予報では「今年は夏が長かったが、冬も早く、そして大雪」と伝えています。 当地は、11月も下旬に入れば雪や、雪が来なくとも、雨が続くと田圃はぬかるんで作業ができなくなります。それまでに、暗渠(アンキョ)を設置しなくてはならず、稲刈り後は毎日その準備作業に追われるです。 暗渠は、当地のように、田圃の作土の下に砂利や砂の層がなく、地下への水はけが出来ない田圃の排水を促すために必要な作業なのです。
田園の長さに合わせて長さ145メートル、巾20センチ、深さ1メートルの細くて深い溝を10メートル毎に堀り、底部に細かい穴が空いた直径6~8センチの塩ピパイプ(昔は素焼きの土管) を並べ、その上に籾殻を敷き詰め埋め戻す構造です。 田園にたまった水は、籾殻を通して地中の塩ビパイプに達し、パイプの先から排水路に水を出して、田圃を乾燥させるという仕組みです。
上の写真は、籾すりで出来た籾殻を袋に詰め田園へ運んでいるスナップです。
さて、前号でも一部報告しましたが、収穫を終え全ての田圃の放射能検査を完了しました。 セシウム1ベクレルの徹底した検査です。結果は全て「不検出」でした。 どうぞ安心してお子さんたちのご飯にもご利用下さい。
春の有機資材の放射能検査では、関東産の米糠は放射能残留があり使えませんでした。黒瀬農舎では、新米の米糠も検査しましたが不検出でした。糠漬けなどに米糠をご利用の方は、お米と同送なら無償でお譲りします。ご利用下さい。(黒瀬農舎に直接お米をご注文頂いている方に限ります)
遅きに失した「減反見直し」
10月下旬になって政府、自民党は「減反政策」の見直しを発表しました。 農業農政問題のニュースがこの2,3年少なくなって我が家へのマスコミ取材も減っていましたが、今回の政府、自民党の発表で急に東京の新聞やTVの記者からの問い合わせが増えてきました。 そこで、今回はこの問題に関することを少し紹介します。
そもそも「減反」 (米の生産調整)は、米が余ったことの対策として今から40年余り前の昭和45年に実験事業として始まりました。
普通の商品は、生産(供給)が過剰になれば、市場の価格は下がり、下がった価格では作れない工場や人は生産を止めます。このことで生産は減少して、適正な値段に回復し価格は落ち着きます。これが市場原理です。 しかし、当時のお米は、食糧管理制度(食管)によって、農薬まみれのお米であろうと、美味しくないお米であろうと、その上、国民が食べる量を超えた不用なお米であっても政府が全量買い入れる仕組みでした。 もともと食管は、食糧難の時代に、お金持ちの人だけお米が食べられ、お金のない人は、お米が食べられないことを防ぐために、戦中戦後の非常時対策として、国がお米を全量管理したものです。
減反発足の昭和45年当時は、食糧難どころか主食のお米まで余った飽食の時代ですから、食管を廃止すれば「減反」を始める必要性はない状況でした。
ところが、多くの農民や農協組織が政治圧力で「食管廃止」を阻止し、また、政治家も保革を問わず、農民票に期待して食管廃止に踏み込めなかったのです。 食管がある限り、政府は、強制的に買わざるを得ない不用な量のお米を抱えます。政府は、古米の巨額な財政負担を減らそうと一時しのぎで「減反」を始めたのです。
ところで、農民は「食管」が始まった当時、大反対しました。食管が出来るまではお米は自由に販売できたものが、食管によって販売が禁止されます。これは農民の営業権の侵害に当たりますから、「非常時」ということを除けば農民の主張は当然です。
しかし、自由な販売を制限された代償として、政治圧力さえかければ、政府に高値で幾らでも買わせられる。よって「売る努力」の必要がなくなりました。 このように、本来農民への規制法である食管がいつのまにか農民の利権と化し、戦後日が経つに従って、売る苦労や努力を忘れた農民たちは、社会性や自立性をなくし堕落していきました。
このような背景でスタートした「減反」は、政府内にも「道理のはき違えだ。」という認識があって、「減反は緊急避難の一時的政策」と位置づけ、数年の聞に「食管」を廃止することで「減反」を終えようと考えていたものです。
一方、減反スタート時の農民は、農協組織も含めて「減反大反対」を唱えていましたが、これも「食管」のパターンと同様に、政治圧力によって減反関連の補助金が年々多額にばらまかれるにつれ「減反堅持」に向かいました。この結果、緊急避難の一時的政策だった減反が今日まで40年余りも続いてきたのです。
私は脱サラして農民となっての30年余りの問、一貫して食管と減反廃止を唱えてきましたが、食管や減反の利権を守ろうとする多くの農民仲間から常に非難攻撃の的となり、昭和50年には、私と秋田県知事、食糧庁長官の対立が深まり、私たちの村は、秋田県、秋田県警と食糧庁に24時間態勢で100日間包囲される珍事に発展しました。
一歩も引かぬ私たちの主張と行動が世論の支持や支援を受け、彼らは何らの成果なく撤退を余儀なくされ、これを端緒として食管は廃止の道に向かいました。
本来なら「食管が廃止されれば減反も廃止」のはずですが、食管時と同様に、農協を中心とした政治圧力によって減反政策は食管廃止後20年近く経つ今も続いています。
食管や減反の利権に守られた日本の稲作農業は、補助金などに群がるだけで経営や技術向上をしようともしない自立性のない農民をはびこらせた一方で、活力ある意欲的な若者の生き甲斐を奪い、優秀な若者を農村から追放することに繋がりました。
食管、減反を40年前に廃止して、国内自由化にもっと早く向かっていれば、日本農業は構造改革も進み多様な活力ある農業者や農村に向かっていたと悔やまれます。
このように私は、減反廃止=国内自由化には賛成ですが、国際自由化を目前にした国内自由化は「遅きに失した転換」につながる恐れがあると危惧します。
今後は、従来のような所得補償など過保護政策によって市場原理を破壊して経営マインドの高い農民の農業経営を妨げたりその意欲の芽を摘まないことや、食糧の質や安全と安定供給の確保、地球環境問題などに配慮した農政が行われることを望むところです。